このサイトは、ASK(ask_jasmine_tea)が自身の独自の考えの元で考察した物を、
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(ログ管理者より)
金星の歌詞を湯船の中でじっくり噛み締めながら歌っていたのだ。 なんていうかこう・・・牧歌的なメロディだけどヒラサワの世界観の殆どが盛り込まれているというか・・・ 後の楽曲の詞にそのまま通ずる単語が既に確立されているというか・・・そういう印象。 「フローズン・ビーチ」と「金星」は「ラブソング」だと本人は解説していたんだけど、 じゃあ「フローズン・ビーチ」は「なぜラブソングなのか?」「どういうラブソングなのか?」という事を考えると「金星」に繋がるのよね。 つまり「フローズン・ビーチ」と「金星」は繋がっていると・・・ いや、ヒラサワの曲は実は全部がそれぞれ複雑にいろんな部分で繋がってるから当然なんだけど。 まあ、舟とか水とか言ってる時点で「フローズン・ビーチ」と密接な関係があるのは大体予想できると思うけども。 なんていうかな・・・でも、ヒラサワの曲って「こおれはこういう意味でね」って説明が出来ない。いや、出来るのは出来るけどそれじゃ足りないのね。 外国語の歌詞を翻訳するような難しさがある。 一つの単語に色んな意味が含まれていて、単語毎に何かひとつの事を指し示している訳ではなく全体的なニュアンスも内包してるというか何と言うか。 ただ単に格好良く見せる為に詩的なムードの為にその単語を選んでいるのではなく、 その物事の本質を最も的確に表している単語のみで構成されているというか。 つまり本人が後で歌詞を変えるのも困難になる程、最初から高度な詞として出来上がっているというか。 要はヒラサワの歌詞は「ヒラサワ特有の言語」によって「ある事象について“これ以上ないくらい詳しく説明している”」のだけど、 その「ヒラサワ特有の言語」を誰にでも分かりやすく翻訳するのが難しいというか。 なので、その翻訳の解釈によって意味の幅が振れるのであろうと思うのだけど、ヒラサワ語の正確な辞書なんてないし、 例え本人の思惑と違っていたところで当のヒラサワは「じゃあそういう意味も追加で」なんて言いそうであるから、やはりタイ料理であると。 で、自分なりに解説をしてしまうとヒラサワの詩的世界観が一挙に崩れてしまいそうなほど高度であるけれども、 一回崩さないと分かんない事もあるので崩してもいいかなーと。 どうせここでいっぺん崩れたとてそれは崩しのシミュレーションでしかないし。 「消えた星」つまり「金星」というのが「溶けた海の底」なのであろうなーと・・・ そこまでの「地図」というのが「キミはボクだから」という言葉なのであろうなーと・・・。 「金星」はなぜ見えなくなってしまったのか。海の底に沈んでしまったから。 朝が来る前に・・・いつか陽を仰いで・・・という事は夜なんだよな・・・夜・・・・ 夜ってよく出てくるんだけど・・・頑なに夜に住んだりしてるし・・・夜って・・・でも悪い意味ではないのよ・・・ 陰と陽の陰のほうというか・・・つまり・・・・マイナー? 「朝が来る前に、“消えた星までの地図”を・・・」なのか「“朝が来る前に消えた星”までの地図を・・・」なのか。 眠りっていうのもね・・・キミまだ眠り深く夢みて見晴らすあぁあ〜・・・・うぅーん・・・・えーとえーと・・・。 「眠り」とか「夜」とかていうのは自分の内側に潜る事かしら、イメージ的には。 「宇宙」というのもヒラサワ的に言えば「外へ向かう宇宙」ではなく「内に向かう宇宙」のように思う。 自分の中の無意識というか、誰もが自身の中に宿す精神の宇宙というか、そも“精神”という言葉がまず“精”で“神”であるから、 見えないグルというかそういったモノの大きいやつ。 「朝が来る前に」というのは要するに「無意識から浮上してしまう前に」というような感じだな。 「西はまだ無窮のさなか」の「西」は「老いた日へ明日を見に 過ぎる時の西へ西へ」の「西」、 つまり「時間の西方」であるから「死」とかそういうの。 金星の頃はまだ若かったのよね・・・そういう問題でもある。だって人との繋がりの歌だもん。 あの頃はまだ人間だったの。 今も人間だけど、精神が・・・というか金星の頃のヒラサワに比べたら今のヒラサワはだいぶ西に来た訳でしょ。 その過程で段々オゾノコブラノスキーに成ってきたよね。 オゾノコブラノスキーというのは老賢者であるから、そういう「他人との関わり」みたいな事は全体の中の一部でしかない事も既に学び、 もっと大きな括りで物事を捉えるようになって=今のヒラサワって事よ。そうよ。 はいはい。で、「舟」はそのまま「BOAT」であろうか。 「自分の内側に潜る」という事は「死ぬ」という事と割と近いよな・・・ 死んだらどこか外に行くのではなく「はるか一なるもの」に還るのならば、 自分の中の宇宙がキミ(=他人)を見晴らすというのもまた「はるか一なるもの」であるし。 あ、なぜそれを今言ったかというと「オーロラ」の「眠りへと船出する」の「眠り」と「眠りから見晴らせば」とか 「キミまだ眠り深く」とかの「眠り」とか似て非なる、しかしかなり近い位置にあるというような事を言いたかったのだった。 はい、次。「地の果て」とはなんだ。 「地の果て」と言っても、地面がなくなるまで歩いたらやがて辿り着くのは海しか無い気がする。 となると「地の果て」というのは地と海のはざま。砂浜。ビーチ。あれ?おお? 「無意識から浮上する前に、溶けた海の底までの行き方を、キミへの歌に変え、忘れないようにビーチの人に預けた」 という事は「舟よ、急げよ」とか「西はまだ無窮のさなか」とかはボクに関する事象ではなく「キミ」への呼びかけのように思う。 「変わらないもの」というのは・・・「変わらない人をたずね道に迷うよりも」というように「不変」を良しとしないという事かなーとも思ったんだが。 それよりは「共通の価値観」というような「凝り固まった何か」という感じがする。な。 つまり、二人の間にそういう頭でっかちな「共通の文化」みたいなモノを意識し過ぎていろいろと試行錯誤をしたよーと。 その日から金星は見えなくなってしまった。つまり、対岸の島にばかり注目して海の底を見なくなってしまった。 それが「僕らの間に〜あの日から消えた星が」までの流れか。 かわも・・・?海はどうした。 あ、そうか。川は海に続いてるんだよね。水かさが増したら海になるわな。そんで「水かさよ増せ」なのかな。 水かさが増せばビーチのキミと川辺のボクのいる場所も全部水没して海の底になりますわね。 「いつか陽を仰いで」はもう朝だ。 という事はつまり無意識に潜らなくても「金星」が見えるようになったらって事だな。 「いちいち確認しなくても海の底が続いてる事がわかるようになったら」って事か。 「あの地図の歌を歌おう」ってのもなんか呼びかけっぽい。 自分で「歌ってあげるよ」って感じもあるけど、「キミも一緒に歌おうよ」って感じがちょっとある。 よし、まとめた。 無意識から浮上する前に、「溶けた海の底」までの行き方をキミへの歌に変えて、ビーチの人に預けたよ。 キミの乗ったBOATよ、ビーチへ急げ。時間はまだある。ボクの中にキミを感じているよ。 僕らの間に「目に見える共通点」を探しすぎて、ずいぶん大変な思いをしたね。 あの日から見えなくなった海の底が、今すこし見えてきた。 水かさよ増せ、キミのいるビーチと僕のいる川辺もすべて飲み込んで ひとつづきの海の底になるように。 いつか、いちいち確かめなくても「僕たちが繋がっている事」を感じられる日が来たら、 あの時ビーチに預けた「海の底への行き方」の歌を一緒に歌おう。 『ボクはキミだから』と。 こんなもんか、簡単に言うと。こう考えるとなんだかとってもムズムズするラブソングだな。ロマンティックがとまらない。 で、まあ良いんだけどこういう意味だったとして、これをあのような的確かつストーリー性溢れる歌詞に仕立てられるヒラサワはすごいんだよという。 とにかくヒラサワすごいんだよといいたい。すごい。